2015年7月13日月曜日

171-20150713


僕はフィルム写真をアートというわけではなく一般的な使用法、主に日常的な写真を撮影して楽しんでいるので、自分で焼き付けるなんて考えることもなく楽しく撮影し、その結果に一喜一憂している。
ほんの少し前、と言ってもたった数年前のことだけれどフィルムの現像プリントの料金は1,000円を下回っていた。なので気軽にバシバシ撮って、ほいほいと現像プリントというサイクルができていた、しかし最近はフィルム一本撮影するのに2,000〜3,000円なんて当たり前、楽しむという用途にしては費用がちょっと現実的ではない、ワンシャッター切るだけでガリガリ君が一本食べられるかもしれないそんなお値段。
気づけばディジタルで撮影することが多くなり、そして撮影したフィルムも大手カメラ店を除けば郵送という形でしか現像プリントを得ることができないので、面倒だなあなんて冷蔵庫の中に一本、また一本と溜まっていくわけだ。
潜像していた絵が消えちゃうぜ、と先輩カメラマンに示唆されそいつは不味いねとようやく溜まったフィルムを現像プリントに出した。
似たような写真はディジタルでも撮影していたはずなのだけれど、写真、ものとして見る日常の風景はどことなく現実感を感じ、過ぎた時間に対してノスタルジックな感傷を喚起する。娘がまだ産まれておらず、一人だった坊主の表情。いつの間にかなくなってしまった道具。

なくなってしまったんだな、ではなくそこには確かに在ったんだなという気持ち。