2015年7月20日月曜日

172-20150720


久しぶりに見る姿にあっと言う間の時間を感じる。
腕や身体、全てが繊細さを覚える程に細くて、簡単に壊れてしまいそうでドキドキした。
ちょっと鼻が詰まって、呼吸に苦しさが垣間見える様に心臓がキュッとなる苦しい思いをした。
今もまだ危うさを感じる部分もあるけれど、ハムにそっくりだねと笑えるほどにぷくぷくと太り、笑顔から生のエネルギーを分けてもらえる。
また、あっと言う間に親離れする頃にまでなってしまうのだろうか。
日々を緩慢に無感情に過ごさず、集中力を持って時間を愉しみたいね。
疲れちゃうかもしれないけれど、絶対に素敵な時間だと思う。
ゆっくりするのはその後でいいかもしれない。

2015年7月13日月曜日

171-20150713


僕はフィルム写真をアートというわけではなく一般的な使用法、主に日常的な写真を撮影して楽しんでいるので、自分で焼き付けるなんて考えることもなく楽しく撮影し、その結果に一喜一憂している。
ほんの少し前、と言ってもたった数年前のことだけれどフィルムの現像プリントの料金は1,000円を下回っていた。なので気軽にバシバシ撮って、ほいほいと現像プリントというサイクルができていた、しかし最近はフィルム一本撮影するのに2,000〜3,000円なんて当たり前、楽しむという用途にしては費用がちょっと現実的ではない、ワンシャッター切るだけでガリガリ君が一本食べられるかもしれないそんなお値段。
気づけばディジタルで撮影することが多くなり、そして撮影したフィルムも大手カメラ店を除けば郵送という形でしか現像プリントを得ることができないので、面倒だなあなんて冷蔵庫の中に一本、また一本と溜まっていくわけだ。
潜像していた絵が消えちゃうぜ、と先輩カメラマンに示唆されそいつは不味いねとようやく溜まったフィルムを現像プリントに出した。
似たような写真はディジタルでも撮影していたはずなのだけれど、写真、ものとして見る日常の風景はどことなく現実感を感じ、過ぎた時間に対してノスタルジックな感傷を喚起する。娘がまだ産まれておらず、一人だった坊主の表情。いつの間にかなくなってしまった道具。

なくなってしまったんだな、ではなくそこには確かに在ったんだなという気持ち。

2015年7月8日水曜日

2015年7月7日火曜日

169-20150707


どうやら僕のカメラのフォールディング、あまりよろしくなかったみたいだ。
焦点距離50mm程度において、シャッタースピードが1/15秒を下回ると随分と手ブレが目立ち、
そういうものなんだろうねと感度と絞りをカラカラと変化させながら、
極力シャッタースピード1/60秒以上に設定するということを心がけている。
のだけれど、ジョーマクナリーの書籍に度々記されているカメラのフォールディング、
これはとても大切なことなんだよというような説明。
ホットシューから取り外したスピードライトの持ち方もあり、
少し試してみたらなんだかブレが非常に少ないんじゃないかな、これ。
1/8秒以下のシャッターなんて広角でしか利用しないよと思っていたのだけれど、使える。
そして特に驚いたのはピントの合焦率が上がっていること。
想像でしかないのだけれど、がっちりとしたフォールディングが僕のブレを少なくしたことで光もまたブレなくまっすぐオートフォーカスモジュールに届き、それがピントの精度を上げたんじゃないかな、なんて考えている。

とにかくそれなりに写真を生活として取り組んでいたつもりなのだけれど、ここで基本の重要さを確認した。
本当に驚きだ。

2015年7月3日金曜日

168-20150703


生後半年までもう間も無く。
というわけで、家族写真をここいらでもう一度パチリ。
坊主がいつもマイペースなおかげで、パーソナリティーが写し込まれた、
素晴らしいファミリーポートレイトになっているように思う。
そこに写っている人の「らしさ」が写ると、
途端に写真が持つメッセージやストーリー性を帯びる、こうだったよと語りかけてくる。
坊主の線の細さ、足の角度、修復を繰り返している本、表情。
僕はこの坊主の様子を見て、娘が生まれて、寂しい思いをさせてしまっていること、
きっと繰り返し思い出すだろう。そうだ、その分だけ優しくしてあげよう。
例えクオリティが高くなく、綺麗じゃないとしても、そういう要素を持った写真が好きです。